#02 症状を「コミュニケーションとして考える」ということの重要性
2021.08.26
現場におけるパーソンセンタードケアとは
元永: ところで、認知症ケアの現場におけるパーソンセンタードケアとの出会いや、それがどのような意味があったのかを、中野さんに語って頂きます。
中野: 当初はパーソンセンタードケアを、その人らしくとか、その人中心のケアと言う訳され方で捉えていました。94歳の認知症のご婦人のケースですが、最初の頃は薬を飲ませれば静かになってもらえるし、それで周囲も助かり安心できるし、本人が良ければそれで良いと思っていました。
しかしはたして、認知症のご本人だけが良ければ、家族が大きく疲弊したりケアする側がそれこそ大変な状況であっても良いのか。それがパーソンセンタードケアと言うならば、それは違うのではないか、パーソンセンタードケアとは何なのだろう、という思いがありました。
認知症の方が本当にその人らしく、生活のしづらさを皆がサポートしながら、家族と一緒に在宅で生活できるためには、職域に留まらずに周囲の皆がそういう視点で考えていかなければならないのではないかと、ここ数年ずっと考えています。
その方の生活にヘルパーが入りすぎれば、生活のペースを乱してしまうし、だからと言って行かなくて良い訳ではないし、訪問のペースとか間隔とかを考えながら在宅ケアに取り組んでいます。
その方に関わっているドクター、家族やケアマネジャーやケアスタッフ、近所の人まで含めた皆で、どうしたらそのご婦人の「この家の畳の上で死にたい」「施設に送らないでね」と言う思いに応えてけるか、と考えています。
元永: 認知症の方は、日常のケアの中で、それこそいろいろな事を語りますよね。でもその言葉の全てに応えていたら、体がもたないし、家族も振り回されてしまうことになります。
当然全てに対応は出来ないから、選んで対応していると思われます。
しかし、その人の語りの中で、背後にあるメッセージも考えて何が大事なのかを選ぶことは、医療従事者やケア従事者にとって非常に難しいことだと思います。
それは家族の視点とも違うと思われます。でも実際の現場ではそのような対応をされているわけです。それは直感によるものなのですか。
中野: ほぼ直感でしょうね。最初にケアに訪問した時に「ヘルパーさんなんか頼んでないわよ」というのが、皆さんの大体最初のフレーズですね。
最初は門前払いだったのが、「あら、いらっしゃい」と言ってくれるまでに約2年かかった方がおられます。
特に入浴の支援はとてもハードルが高く毎回大変です。今でも、その方はその都度理由をつけてなかなか入浴してくれません。
でもその都度の会話で私とコミュニケートしながら、その方は私の存在を否定せずに受け入れてくださっています。私はその限られた時間の中で、その方が生活の中で困っている事や本当の思いなどを探りつつ、必ずしもサービスの押し付けや時間の消化ということではなく、ほぼ直感で臨機応変に対応しています。
茶道の先生だったということで、時にはお茶を入れてくれたりして私に気遣ってくださいます。
今でも、いろいろ理由をつけて入浴を拒むのですが、背中を流して差し上げた時などには、「背中を流してもらうのは何年ぶりかしら」と喜ばれたりします。すると私もうれしくなります。きっと「自分で出来るうちは人の手を借りずに自分でする。出来なくなった時には助けてもらおう」という気持ちなのだろうなと、私は感じています。
今はその方の気持ちを一番大切にしながらケアをさせてもらおうと思っています。
いろいろな機会を通してその方とお話し、コミュニケートすることで、その人に近づき関わらせて頂くことができ、また多くのことを学ばせて頂いていると思います。現在はそんな訪問介護を行っています。
常にケアする側だけが情報の発信者ではない
木之下: 5年位前の話ですが、在宅ケアの入浴支援で、腕に噛み跡をつけられて、「やっとお風呂入れてきたわよ。」などと、名誉の負傷みたいに言っていた時代がありました。それが正しいケアのあり方だと思っていたわけです。今の中野さんの話と随分違うでしょう。
騒ごうが、暴れようがともかく風呂に入れるというケアから、そのことを風呂が嫌いだというその人のコミュニケーションの一つと見なしていくケアへ、「よいケア」とはなにかとう意識にシフトしているわけです。
つまり、今までの認知症医療やケアのあり方が、「問題の事後的な対応」が主眼となっていたということ。発生した問題を対処しつつ、プランに書かれているタスクを消化「できる」というのがこれまでの優れたケアであった、ということです。
それは例えば、いまの介護保険の主治医意見書にも、「認知症の周辺症状」という形で残っています。いまなら、「暴言」や「暴力」や「徘徊」を制圧的に対処しようとすることは間違いではないか?という指摘もできるようになってきた。
そのような時代の変り目に我々がいる。暴言とかいう前に、なぜこの人はそんなことをいうのか、症状としてではなく、当たり前の訴えとしてコミュニケーション化する作業、つまり価値観のシフトチェンジが我々の中でも起こってきています。
たしかに、本人の視点で考えれば、この変化は正当化できますが、一方、「周りの視点」から言えば、このことが原因の他殺、自殺もあるわけで、そこにはきれいごとで押し切れない現実もあります。
本多: 中野さんは、以前はまさに「対応」している。「お世話」している。「その人」中心でその人さえ良かったらいいと思っていたというところから、今はその人と話をする、コミュニケーションが先だという思いに移ってきていますよね。
「その人」だけでなく自分も一緒に喜びとか、ほっとする気持ちとかを共有したいという双方向のケアのあり方ですよね。
そうでなく、ただ仕事としてお世話をするだけだと、おそらく疲れるし、やってあげたと言う自己満足的な達成感を求めてしまいがちです。そこには共に喜びを分かち合う、共に生きると言う視点が無いからそうなってしまうのだと思います。
木之下: トムキットウッドはパーソンセンタードケアの根幹をなすものとしてポジティブパーソンワークとして、認知症の人との12の良い関係性を説明しています。
しかし、ポジティブパーソンワークとは、単に一方的な良い働きかけではないと思います。トムキットウッドの話のすごいのは、そのいい働きかけをする発信者が、認知症の人の場合もある、と言っているところです。
常にケアする側だけが情報の発信者ではない、ということに気付かせてくれます。中野さんのお話からもそれは想像できます。
しかし、現状は良い働きかけをするのがケアする人、と相変わらず、一方向の「働きかけ」におとしめられてしまっている気がします。相手も人だけれど、自分も人、という関係性になれば良いと思うし、今回の厚生労働省の報告書もそのような進化を遂げると良いと思います。
森口敦 ドクタージャーナル東大生チーム・コーチ兼メンター