#01 耳鼻咽喉科の単科専門病院として、100年以上の歴史を誇る神尾記念病院

神尾記念病院は、全国でも珍しい30床の入院設備を持った耳鼻咽喉科単科の専門病院で、1911年(明治44年)に東京・神田で開業してから関東大震災や戦火による消失など幾多の困難を経て現在に至り、2011年で創業100年目を迎えた。神尾友信氏は直系の4代目となる。 一般社会の耳鼻咽喉領域の病気に対するリテラシーは低いが、聴覚、嗅覚、味覚などの人間の五感に関わる病気は患者のQOLを大きく損ない、原因不明や治療できずに苦しんでいる患者は非常に多い。 全国どこでも患者からの相談が受けられる独自の耳鼻咽喉科開業医ネットワーク「アテンディング・ドクター」制度により、全国から患者が来院する。 (『ドクタージャーナル Vol.6』より 取材・構成:絹川康夫, 写真:安田知樹, デザイン:坂本諒)
神尾友信
神尾友信
医療法人財団 神尾記念病院理事長・院長。1993年 帝京大学医学部卒業、1993年 日本医科大学付属病院耳鼻咽喉科、1995年 山形県北村山公立病院耳鼻咽喉科、1996年 日本医科大学付属病院耳鼻咽喉科、1999年 日本医科大学付属千葉北総病院耳鼻咽喉科、2001年 神尾記念病院入職、2010年 神尾記念病院 4代院長就任 専門領域:鼻副鼻腔手術、耳鼻咽喉科一般 専門医・認定医・学位:日本耳鼻咽喉科学会認定専門医、日本耳鼻咽喉科学会認定補聴器相談医 所属学会:日本耳鼻咽喉科学会、日本聴覚医学会、日本鼻科学会、日本耳科学会、日本めまい平衡医学会

4代続く耳鼻咽喉科専門病院のDNA

当病院は日本で最も歴史と伝統があり、数多くの臨床実績を誇る耳鼻咽喉科の専門病院としての誇りを持って今日に至っています。創業以来直系が続いていて、私で4代目です。ですから、生まれたときから病院を継承することが決まっていたような環境で育ちました。

十代の一時期によくあるように、家業に対する反発などもありましたが、父や祖父の姿を身近に見ていたので、医師と言う仕事は嫌いではなかったですね。

医者の仕事とは奉仕の世界、人助けの仕事、そういう環境の中で育ってきたから、医師の仕事に誇りも感じていましたし、まだその頃は医師が世の中から尊敬されていた時代でした。

私自身もそう思っていましたから、自分が後を継がなければならないという使命感もありました。

幼い頃から風邪を引いたりすると必ずこの病院にかかっていましたので、当時からおられる看護婦長や先輩医師など、今でも頭の上がらない先生も多いです。(笑い)

祖父や父の時代に当病院に勤務されていて、今は耳鼻咽喉科の開業医として活躍されている先生方も全国にたくさんおられます。その先生方が現在、アテンディング・ドクターと言う形で神尾記念病院の連携医療に携わって頂いており、とても感謝しております。

安心感と信頼感と満足感を与える医療を提供

「当院は、耳鼻咽喉科専門病院として、患者さんの安心感・信頼感ならびに満足感の得られる医療を提供します。」と言う初代院長の神尾友修が掲げた創業の基本理念は代々継承され、耳鼻咽喉科一筋で今日に至っています。

聞くところによると、直系で4代継承が続いている耳鼻咽喉科の専門病院は他には無いそうです。

私が2010年に院長を継承したときにも、父の時と同じように神尾病院の理念を継承しました。

初代院長の神尾友修は会津若松から東京に出てきて、医療を勉強し神田に耳鼻咽喉科の診療所を開業したそうです。

その後、幾度もの火事や戦火による消失で、時には挫折しかけたこともある中、曽祖父は会津魂の努力と気力で大変な苦労を乗り越え神尾病院を後世に繋げたそうです。

日本における耳鼻科専門医の魁として、初代院長の神尾友修は耳鼻科の世界に多大な実績を残したとも聞いています。

神尾で診てもらって良くなったと聞いて…

当病院には毎日300名ほどの患者さんが来院されています。首都圏近郊にお住まいの方に加えて、北海道や九州・沖縄といった他道府県や時には海外にお住まいの患者さんも来院されます。

嬉しい事に、ここで治療された患者さんが友人・知人に当病院をご紹介して頂き「神尾で診てもらって良くなったと聞いて…」と言われて新たな患者さんが来院していただくことも多くあります。

歴史に培われた信頼と実績に加え、私たちが常日頃心がけている、良質な医療を提供してきた成果と感じています。

余談ですが、創業の曽祖父が、神尾友修、祖父が友彦、父が友和、そして私が友信と、神尾家では後継者の名前に全て友がつきます。

神尾家は代々会津若松の旧家で、先祖は保科正之といい徳川家康の孫にあたります。白虎隊士の中にも縁者がいるそうですが、私はその神尾家16代目の当主でもあります。

第2代将軍徳川秀忠の側室お静の方が神尾家から出ており、生まれた子が会津松平家初代藩主の保科正之です。そこから神尾家が続いています。

初代院長、神尾友修が故郷を離れ東京の地で頑張れたのはそんな会津魂やプライドがあったからではないかと思います。また当時は三菱の創始者である岩崎家とも密接な交流やサポートもあったそうです。

神尾記念病院

病院にとって「ゆとり」は最も大切です。

病院にとって何が一番大切なのかと聞かれれば、私は「ゆとり」だと答えます。医師も看護師も検査技師もスタッフも、仕事に「ゆとり」がないと技術の進歩も豊かな発想も生まれない。

現場で慌てると医療事故やいろいろな問題が起きてくる。

どんなに良い医療を提供しても、たった一つの事故で総ては台無しになってしまう。それが一番怖い事です。

ですから、医師を中心に全スタッフが忙しい中にも、ある程度の「ゆとり」を持って医療に従事できるような体制や環境作りに心を砕いています。

常勤医の数や診療時間、院内スタッフの確保などで、時には経営の効率化や採算性と対峙することもあります。しかし収益性を上げる事と同様に大切にしなければならない事があると思っています。

当病院は耳鼻咽喉科の専門病院という特性ゆえに、他の医療機関で治らなかったり、原因が分からないなどという、患者さんが多く来院されます。

そんな患者さんたちはよく「藁をもすがる」と言う言葉を口にされます。そのような患者さんたちに満足のいく診療を行い、ここに来て良かったと言って頂く為には、非常に多くの労力、気力、精神力を使います。そのために、働きやすい環境作りが最も大切なのです。

それが「ゆとり」なのです。

当病院には、現在8名の常勤医と16名の非常勤医がいます。(※2018年現在は常勤医13名、非常勤医18名)

これだけの常勤医を揃えるのは大変なことですが、患者さんにとって必要なことなのです。これだけの常勤医を確保し続けるためにも、ゆとりが必要なのです。将来的には独立されていく先生もおられますが、それまでは最大限ここで働いて経験を積んで欲しいと思っています。

常にドクターの勤務状態や診察には気を配り、適切なサポートもできるようにしています。院長室にあるモニターでは病院内の手術室などが見れるようになっていますので、時には術中のドクターに助言をしたりヘルプについたりして、ドクターが一人で抱え込み過ぎないように配慮しています。

この記事の著者/編集者

神尾友信 医療法人財団 神尾記念病院 理事長 院長 

1993年 帝京大学医学部卒業、1993年 日本医科大学付属病院耳鼻咽喉科、1995年 山形県北村山公立病院耳鼻咽喉科、1996年 日本医科大学付属病院耳鼻咽喉科、1999年 日本医科大学付属千葉北総病院耳鼻咽喉科、2001年 神尾記念病院入職、2010年 神尾記念病院 4代院長就任
専門領域:鼻副鼻腔手術、耳鼻咽喉科一般
専門医・認定医・学位:日本耳鼻咽喉科学会認定専門医、日本耳鼻咽喉科学会認定補聴器相談医
所属学会:日本耳鼻咽喉科学会、日本聴覚医学会、日本鼻科学会、日本耳科学会、日本めまい平衡医学会

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遺伝子専門医でもある熊川先生は、難聴のリスク遺伝子を特定する研究にも携わられてきました。信州大学との共同研究を経て、現在では高い精度で予後を推定できるようになっています。 将来を見据えたライフスタイルの設計のために。本連載最終記事となる今回は熊川先生の経緯や過去の症例を伺いながら、難聴の遺伝子検査について取り上げます。