#01 iPS細胞とCRISPR-Cas9が変える心疾患研究 | “試験管内”で病気を再現する
2026.06.13
山中伸弥教授がノーベル生理学・医学賞を受賞した「iPS細胞(人工多能性幹細胞)」。
近年は「再生医療」への応用が期待され、心不全やパーキンソン病などへの臨床研究が進められていますが、iPS細胞が活躍するのは再生医療の分野だけではありません。病気の原因解明や創薬の領域で、「iPS細胞から体内の組織を試験管内で再現し、疾患が起こるメカニズムを解明する」試みや、「それによって効果的な薬剤を探す」応用がなされています。
本連載で取材するのは、オハイオ州立大学の西賀雅隆先生。iPS細胞を用いた心疾患研究の最前線で活躍されています。
「再生医療」のイメージが強いiPS細胞が、研究現場でどのように活用され、私たちの未来をどう変えるのでしょうか。1記事目となる本記事は、iPS細胞やゲノム編集技術CRISPR-Cas9の基礎と、それらを取り入れた基礎研究について語ります。
取材協力:西賀雅隆先生(オハイオ州立大学)

■略歴
2007年 京都大学医学部卒
2007 - 2012年 天理よろづ相談所病院(研修医および循環器内科後期研修)
2017年 京都大学大学院 博士
2017 - 2025年 Postdoctoral Fellow/Instructor (Stanford University)
2025年 - Assistant Professor (The Ohio State University)
iPS細胞:疾患モデル、創薬への応用
一般的に「iPS細胞」と聞くと、多くの人が「傷ついた臓器を新しい細胞で置き換える」といった再生医療を思い浮かべるでしょう。しかし、本連載では「病気の発症プロセスを可視化するためにiPS細胞を用いる」疾患モデル研究(※1)について扱います。
※1 疾患モデル研究…病気の発症プロセスを解明したり、薬の効果を確かめたりするために、実験用のプレート上や試験管の中で病気の状態を再現する研究。マウスなどの動物モデルや、患者のiPS細胞から作ったモデルなどが用いられる。
医学の基礎研究においては、マウスなどの動物モデルがよく用いられます。しかし、ヒトと動物とでは遺伝子の配列、各臓器の働き方、食事、生活環境などが異なるため、動物実験によってヒト体内で起こる病気の仕組みを解明するのには限界があり、また、動物を用いて開発された薬や治療法がヒトでは効果が出ないことがあるという問題がありました。
加えて、研究の対象となる「ヒトの細胞」を直接採取し、利用すること自体にも大きな壁があります。例えば、手術で取り除かれるがん細胞とは異なり、心臓の筋肉細胞(心筋細胞)や脳の神経細胞などは、病気を持っている患者さんから直接採取することが極めて困難であり、病気をもった生きた細胞を利用することは容易ではありません。
そこで近年は、患者さんの血液や皮膚の細胞から作られたiPS細胞を、実験用のプレート上で「心筋細胞」へと分化させ、患者特有の心筋細胞を試験管内で忠実に再現する試みがなされています。iPS細胞を用いることで、ヒトの心筋細胞、さらには、特定の患者さんの情報を反映した心筋細胞を作り出すことができ、それによりヒトの体内で起こる病気の仕組みをより深く、正確に理解しようというわけです。
iPS細胞の基礎
iPS細胞(人工多能性幹細胞)とは、皮膚や血液などの分化した細胞に、少数の因子を導入して作られる細胞です。心筋や神経など、私たちの体を構成するほぼすべての組織・臓器の細胞へ分化する能力(多能性)を持っています。
ヒトの体内には多種多様な細胞が存在しますが、元を辿ればこれらはすべて、一個の受精卵が分裂・分化を繰り返してできたものです。この、分化する前の「大元の細胞」が幹細胞と呼ばれ、iPS細胞は皮膚や血液などから人工的に作成された幹細胞です。
京都大学の山中伸弥教授は、ヒトの皮膚や血液の細胞に「山中因子」と呼ばれる4つの遺伝子を導入することで、すでに役割が決まった細胞を未分化な状態へと「初期化」できることを発見しました。この技術により、患者さん自身の細胞を用いて、必要な細胞を理論上無限に作り出すことが可能になったのです。

CRISPR-Cas9の基礎
本連載を読み進める上で、iPS細胞に並んで重要なのが、「CRISPR-Cas9」というゲノム編集技術です。
CRISPR-Cas9とは、「DNAの特定の配列をピンポイントで切り貼りし、狙った通りに遺伝情報を書き換えることができる技術」です。2020年のノーベル化学賞を受賞したこの技術は、従来のゲノム編集に比べて圧倒的な簡便さと精度の高さを持ち、生命科学に革命をもたらしました。
下図のように、標的となるDNA配列を認識して案内する「ガイドRNA」と、DNAを切断する酵素である「Cas9」がセットになって働きます。ガイドRNAが狙った遺伝子の場所へCas9を正確に導き、Cas9がピンポイントでDNAを切断します。その後、細胞が持つ修復機能を活用することで、特定の遺伝子を壊したり、あるいは新しい遺伝子情報を組み込んだりすることが可能になります。

iPS細胞にこのCRISPR-Cas9の技術を用いると、様々な種類の細胞(脳、心臓、肺、肝臓の細胞など)の遺伝情報を書き換えることができます。これによって、どういった遺伝子変異が病気の発生に関わっているのかを特定することが可能になります。
iPS細胞×CRISPR-Cas9が切り開く新たな解析手法
ここからは、iPS細胞やCRISPR-Cas9といった最新技術を組み合わせた基礎研究について、オハイオ州立大学の西賀雅隆先生に伺っていきます。
ーー再生医療で注目されている「iPS細胞」ですが、これを用いることでどのような研究が可能になるのでしょうか?
西賀:iPS細胞を用いた疾患の治療に役立てる方法には、大きく分けて2つの方向性があります。一つは、傷ついた臓器を新しく作りなおした細胞や臓器で修復する「再生医療」です。もう一つは、iPS細胞を病態を再現するプラットフォームとして用いる「疾患モデル」研究で、病気のメカニズムの研究や薬のスクリーニング(※2)が可能です。イメージとしては、従来マウスなどの動物を用いて行われてきた研究を、ヒト由来のiPS細胞に置き換えて行うような形ですが、動物実験に比べて優れているのは「①ヒト患者から直接採取するのが難しいタイプの細胞」や「②動物モデルでは再現できない病気」、「③特定の個人の細胞」を再現できるようになった点です。
※2 スクリーニング…膨大な数の化合物(薬の候補)の中から、特定の病気に効果があるものや、毒性がないものを、試験管内での実験を通じて選び出す作業のこと。iPS細胞を用いることによって、生体からの採取が困難な脳や心臓などの細胞を試験管内で再現し、ヒトの細胞に対する薬の反応を直接確かめることが可能になった。
①ヒト患者から直接採取するのが難しいタイプの細胞
西賀:手術で病気の部分が取り除かれる「がん」とは異なり、心臓の細胞や脳の細胞は、病気の人から採取して研究の材料にするというわけにはいきません。iPS細胞が登場するまでは、実際に病気が起こっているヒトの心筋細胞や神経細胞を用いて治療法を研究する手法はほとんどなかったのですが、現在ではiPS細胞を用いて、プレート上や試験管の中でその病気を再現するというアプローチがなされています。
②動物モデルでは再現できない病気
西賀: 研究において最もよく用いられる動物モデルであるマウスとヒトとでは、臓器の形、働き方、薬への反応の仕方が大きく異なります。心臓を例に挙げると、まずサイズが全く違いますよね。マウスの心臓は豆粒ほどの大きさしかありません。
西賀:また、心拍数にも大きな開きがあります。マウスが1分間に500回程度拍動するのに対し、ヒトは60回程度です。これほど動態が異なると、マウスの心臓では再現できない構造や生理現象が数多く存在します。そのため、ヒトの細胞で直接検証することには大きな意味があるのです。

③特定の個人の細胞
西賀:ヒト同士を比較しても、一人ひとりが持つ遺伝子変異には多様性があり、病気の現れ方は千差万別です。iPS細胞を用いれば、特定の「その人」の細胞を試験管内で再現できる。この個別化された再現性が、iPS細胞を活用する強みだと言えます。
西賀:また、私が現在拠点を置いているアメリカは多民族国家です。人種によって特定の病気へのなりやすさや、薬の効き方が異なることが知られています。そのため、多様な人種のiPS細胞を使い、人種間の差異を考慮した研究も行われています。

ーーiPS細胞とCRISPR-Cas9を組み合わせることでどのような研究が可能になったのでしょうか?
西賀:端的にいうと、「理想的な比較対象」を自分たちで作れるようになった、ということですね。
西賀:もともと、ヒトの細胞というのは個人間のバラツキが大きいものです。例えば、ある病気のメカニズムを解明しようとして、「患者の細胞」と「健常者の細胞」を比較したとします。しかし、そこには病気の原因だけでなく、性別、年齢、人種、そして親から受け継いだ無数の遺伝的な違いが含まれています。また、iPS細胞を作成する過程でもバラツキが生じます。これでは、観察された現象が「病気のせい」なのか、それとも単なる「個人の体質」なのか、あるいは、iPS細胞作成の過程で人工的に持ち込まれた技術的問題なのか、判別がつかないという難しさがあったんです。
西賀:ここでCRISPR-Cas9が登場します。この技術を使えば、患者さんのiPS細胞の、病気の原因とされる「たった一つの遺伝子」だけをピンポイントで正常な状態に修復することができます。
- 元の細胞: 病気の原因遺伝子を持っている
- 修復した細胞: 病気の遺伝子は正常化。それ以外の遺伝子情報は元の細胞と同じ
西賀:この2つを並べて比較すれば、違いは「病気の原因遺伝子があるかないか」だけの理想的な対照実験ができるようになります。これにより、iPS細胞を用いた病気メカニズムの解明や薬のスクリーニングはさらに精度を増し、個体差に埋もれていた変化も捉えることができるようになりました。

(#02へ続く)




