#02 離島の医療には、医師としての醍醐味があります
連載:東京でクリニックを運営する傍ら、 日本最西端の離島でへき地医療に取り組む。
2021.02.08
へき地医療との出会いは大学病院時代
― 何故、緒方先生は離島でのへき地医療に取り組まれるようになったのですか。 ―
私とへき地医療の出会いは、今から20年前の大学病院時代にまで遡ります。
私は東京都港区の出身で大学卒業後の勤務先も東京の病院でしたから、それまでは地方やへき地との関わりが特にあったわけではありませんでした。
平成4年のことです。当時の厚生省で僻地医療を支援するプログラムがあったのですが、医師がなかなか見つからない状況でした。
当時から石垣島や離島には内科や外科の先生はおられたのですが、耳鼻科や眼科、小児科などの専門医がいない状態でした。そこで厚生省は各専門医学会に医師の派遣を要請しましたが、対応できるとしたら大学病院などの大きな医療機関に勤務する医師に限られてしまいます。
しかし当時でも、大学病院の医師数に余裕があったわけではありませんでしたから、人選には相当苦労している状況でした。
担当教授からその話を聞いたとき、以前よりへき地医療には関心がありましたので、それならば私が行きましょう。と手を挙げたのが、そもそものきっかけです。
最初の任期は3か月で、沖縄の石垣島の県立病院に耳鼻咽喉科医として赴任しました。私が耳鼻科医になって4年目くらいの頃です。
その後、大学院に進んだ間は離島への赴任ができなかったのですが、それでも時々は手術の応援などで沖縄の離島医療には関わっていました。
同様の依頼で平成11年に1年間、同じ石垣島の県立病院をお手伝いしました。その時から石垣島の先の与那国島にも行くようになったのです。
大学戻り2年後に、今度は与那国島から赴任の要請が来ました。
それまでの赴任は厚生省のプロジェクトによるものでしたが、その時は沖縄県与那国町から、「与那国島には耳鼻科の医師がいないので、せめて学校健診だけでもして欲しい。」との直接の要請でした。
最初の頃は随時の学校健診でしたが、その後は毎月1回、与那国診療所での定期診療となっていきました。
その後、現地の沖縄地域医療支援センターから、さらなる要請が入って、現在は伊江島にも診療にも行っています。
最初は厚生省からの依頼で始まりましたが、その後は与那国町や沖縄地域医療支援センターからの直接の依頼で離島医療に携わっているので、現地の関係者が抱えている離島医療の課題などが非常に良く理解できます。
離島の医療には医師としての醍醐味がある
― 長年へき地医療に携われて、どのようなことを実感されていますか。―
実感を一言で表すとしたら、医師としての醍醐味です。
何といっても、医師になって良かったと心の底から実感できることです。
与那国島は日本最西端の島ですから、私は日本最西端にいる唯一の耳鼻咽喉科医で、ここから先に専門医は他に一人もないのです。
東京や大病院には多くの優秀な先生方がいらっしゃいます。しかし与那国島では島の人たちが頼りにできる耳鼻咽喉科専門医は私一人だけなのです。
このことは医師としての責任感や自負心と共に、医師になって良かったという充実感と感動を与えてくれます。ですから、なおさら頑張らなければと思います。離島医療で喜びを感じているのは、むしろ私のほうかもしれません。
確かに、東京でのクリニックの運営とへき地医療の両立は大変ですし、特別な経済的報酬があるわけでもありません。しかしこれも何かのご縁で、島の人たちの事情を考えると無責任に辞めるわけにもいかないのです。
体力の許す限りへき地医療を続けていきたい
島の子供が東京のクリニックに挨拶に来たりします。こんな嬉しいことはありません。
本来へき地医療は、開業医ではなく大きな医療機関が医師を派遣するほうが、より現実的だと思います。
私がクリニックを開業する際にも、心配した周囲からへき地医療を続けるのは難しいと言われました。
しかし後任の耳鼻科医が見つからない状態だったのと、私が県立病院にいた1年間では相当数の患者さんの耳の手術を行いましたので、その後の患者さん達のフォローも考えると与那国島の患者さん達を見離すことは心情的にできませんでした。
学校の検診で診ていた子供の中には、「島にいるときに、学校の検診で緒方先生に診てもらいました。こんど東京に就職しました。」と私のクリニックまで訪ねて来る人もいます。こんな再会はとても嬉しいですよね。
これからも離島での診療を、体力の許す限りは続けていきたいと思っています。