#02 離島の医療には、医師としての醍醐味があります

緒方哲郎氏は、20年以上前から取り組むへき地医療を、クリニック開業後の現在も続けている。毎月2回、平日の診療後に最終便で沖縄に入り、翌日は離島での診療を行い、その日に帰京し翌日からクリニックで診療を行うというハードなものだ。 住んでいる場所で受けられる医療に差があってはならない。しかし現状の過疎地や離島におけるへき地医療は、多くの医療関係者の善意や使命感によって維持されている状況にある。 ホームドクターとして地域医療に携わりながらも、へき地医療に取り組み続けている緒方哲郎氏にへき地医療の現状や課題を伺った。 (『ドクタージャーナル Vol.17』より 取材・構成:絹川康夫、写真:安田知樹、デザイン:坂本諒)

へき地医療との出会いは大学病院時代

― 何故、緒方先生は離島でのへき地医療に取り組まれるようになったのですか。 ―

私とへき地医療の出会いは、今から20年前の大学病院時代にまで遡ります。

私は東京都港区の出身で大学卒業後の勤務先も東京の病院でしたから、それまでは地方やへき地との関わりが特にあったわけではありませんでした。

平成4年のことです。当時の厚生省で僻地医療を支援するプログラムがあったのですが、医師がなかなか見つからない状況でした。

当時から石垣島や離島には内科や外科の先生はおられたのですが、耳鼻科や眼科、小児科などの専門医がいない状態でした。そこで厚生省は各専門医学会に医師の派遣を要請しましたが、対応できるとしたら大学病院などの大きな医療機関に勤務する医師に限られてしまいます。

しかし当時でも、大学病院の医師数に余裕があったわけではありませんでしたから、人選には相当苦労している状況でした。

担当教授からその話を聞いたとき、以前よりへき地医療には関心がありましたので、それならば私が行きましょう。と手を挙げたのが、そもそものきっかけです。

最初の任期は3か月で、沖縄の石垣島の県立病院に耳鼻咽喉科医として赴任しました。私が耳鼻科医になって4年目くらいの頃です。

その後、大学院に進んだ間は離島への赴任ができなかったのですが、それでも時々は手術の応援などで沖縄の離島医療には関わっていました。

同様の依頼で平成11年に1年間、同じ石垣島の県立病院をお手伝いしました。その時から石垣島の先の与那国島にも行くようになったのです。

大学戻り2年後に、今度は与那国島から赴任の要請が来ました。

それまでの赴任は厚生省のプロジェクトによるものでしたが、その時は沖縄県与那国町から、「与那国島には耳鼻科の医師がいないので、せめて学校健診だけでもして欲しい。」との直接の要請でした。

最初の頃は随時の学校健診でしたが、その後は毎月1回、与那国診療所での定期診療となっていきました。

その後、現地の沖縄地域医療支援センターから、さらなる要請が入って、現在は伊江島にも診療にも行っています。

最初は厚生省からの依頼で始まりましたが、その後は与那国町や沖縄地域医療支援センターからの直接の依頼で離島医療に携わっているので、現地の関係者が抱えている離島医療の課題などが非常に良く理解できます。

与那国診療所

離島の医療には医師としての醍醐味がある

― 長年へき地医療に携われて、どのようなことを実感されていますか。―

実感を一言で表すとしたら、医師としての醍醐味です。

何といっても、医師になって良かったと心の底から実感できることです。

与那国島は日本最西端の島ですから、私は日本最西端にいる唯一の耳鼻咽喉科医で、ここから先に専門医は他に一人もないのです。

東京や大病院には多くの優秀な先生方がいらっしゃいます。しかし与那国島では島の人たちが頼りにできる耳鼻咽喉科専門医は私一人だけなのです。

このことは医師としての責任感や自負心と共に、医師になって良かったという充実感と感動を与えてくれます。ですから、なおさら頑張らなければと思います。離島医療で喜びを感じているのは、むしろ私のほうかもしれません。

確かに、東京でのクリニックの運営とへき地医療の両立は大変ですし、特別な経済的報酬があるわけでもありません。しかしこれも何かのご縁で、島の人たちの事情を考えると無責任に辞めるわけにもいかないのです。

体力の許す限りへき地医療を続けていきたい

島の子供が東京のクリニックに挨拶に来たりします。こんな嬉しいことはありません。

本来へき地医療は、開業医ではなく大きな医療機関が医師を派遣するほうが、より現実的だと思います。

私がクリニックを開業する際にも、心配した周囲からへき地医療を続けるのは難しいと言われました。

しかし後任の耳鼻科医が見つからない状態だったのと、私が県立病院にいた1年間では相当数の患者さんの耳の手術を行いましたので、その後の患者さん達のフォローも考えると与那国島の患者さん達を見離すことは心情的にできませんでした。

学校の検診で診ていた子供の中には、「島にいるときに、学校の検診で緒方先生に診てもらいました。こんど東京に就職しました。」と私のクリニックまで訪ねて来る人もいます。こんな再会はとても嬉しいですよね。

これからも離島での診療を、体力の許す限りは続けていきたいと思っています。

この記事の著者/編集者

緒方哲郎 医療法人社団如星会 山王耳鼻咽喉科 院長 

【専門領域】耳鼻咽喉科学全般。大学では耳の疾患の手術療法を中心に研究を行う。
1989年東海大学医学部卒業、東海大学医学部耳鼻咽喉科入局、1995年東海大学医学部大学院医学研究科修了 医学博士、2006年山王耳鼻咽喉科開院。1992年より厚生省の「僻地医療支援プログラム」に参加し、沖縄県八重山地方の耳鼻咽喉科診療に取り組み、現在も月2回沖縄県の離島での検診を行っている。

最新記事・ニュース

more

遺伝子専門医でもある熊川先生は、難聴のリスク遺伝子を特定する研究にも携わられてきました。信州大学との共同研究を経て、現在では高い精度で予後を推定できるようになっています。 将来を見据えたライフスタイルの設計のために。本連載最終記事となる今回は熊川先生の経緯や過去の症例を伺いながら、難聴の遺伝子検査について取り上げます。

人工内耳の発展によって効果や普及率が格段に高まってきた現代。今だからこそ知りたい最新の効果、補聴器との比較、患者さんにかかる負担について伺いました。重度の難聴を持つ患者さんが、より当たり前にみな人工内耳を取り付ける日は来るのでしょうか。

本連載の最後となるこの記事では、首都圏で最大規模の在宅医療チームである悠翔会を率いる佐々木淳氏に、これからの悠翔会にとって重要なテーマや社会的課題、その解決に向けてのビジョンについて伺いました。

こころみクリニックは正しい情報発信とぎりぎりまで抑えた料金体系、質の高い医療の追求を通して、数多くの患者を治療してきました。専門スタッフが統計解析して学会発表や論文投稿などの学術活動にも取り組み、ノウハウを蓄積しています。一方でTMS療法の複雑さを逆手に取り、効果が見込まれていない疾患に対する効果を宣伝したり、誇大広告を打つクリニックもあり、そうした業者も多くの患者を集めてしまっているのが現状です。 こうした背景を踏まえ、本記事ではこころみクリニックの経緯とクリニック選びのポイントについて伺いました。

前回記事に続いて、首都圏で最大規模の在宅医療チームである悠翔会を率いる佐々木淳氏に、「死」に対しての向き合い方と在宅医が果たすべき「残された人生のナビゲーター」という役割についてお話しを伺いました。

人工内耳の名医でいらっしゃる熊川先生に取材する本連載、1記事目となる本記事では、人工内耳の変遷を伺います。日本で最初の手術現場に立ったのち、現在も71歳にして臨床現場で毎日診察を続けられている熊川先生だからこそお話いただける、臨床実感に迫ります。

本記事では主に医師に向けて、TMS療法に関する進行中の研究や適用拡大の展望をお伝えします。患者数の拡大に伴い精神疾患の論文は年々増加しており、その中で提示されてきた臨床データがTMS療法の効果を着実に示しています。さらに鬼頭先生が主導する研究から、TMS療法の可能性が見えてきました。

お話を伺ったのは、医療法人社団こころみ理事長、株式会社こころみらい代表医師でいらっしゃる、大澤亮太先生です。 精神科医として長い臨床経験を持ち、2017年にこころみクリニック、2020年に東京横浜TMSクリニックを開設され、その後も複数のクリニックを展開されています。 科学的な情報発信と質を追求した診療を通して、日本でも随一の症例数を誇るこころみクリニック。自由診療としてぎりぎりまで料金を抑え、最新のプロトコルを提供しながら学術活動にも取り組まれています。そんなこころみクリニックに取材した連載の第1回となる本記事では、臨床運営の現場から見えてきたTMS療法の治療成績と、コロナ後遺症への効果を検証する臨床研究をお聞きしました。