#03 20年以上前から映像によるインフォームドコンセントを行う

神尾記念病院は、全国でも珍しい30床の入院設備を持った耳鼻咽喉科単科の専門病院で、1911年(明治44年)に東京・神田で開業してから関東大震災や戦火による消失など幾多の困難を経て現在に至り、2011年で創業100年目を迎えた。神尾友信氏は直系の4代目となる。 一般社会の耳鼻咽喉領域の病気に対するリテラシーは低いが、聴覚、嗅覚、味覚などの人間の五感に関わる病気は患者のQOLを大きく損ない、原因不明や治療できずに苦しんでいる患者は非常に多い。 全国どこでも患者からの相談が受けられる独自の耳鼻咽喉科開業医ネットワーク「アテンディング・ドクター」制度により、全国から患者が来院する。 (『ドクタージャーナル Vol.6』より 取材・構成:絹川康夫, 写真:安田知樹, デザイン:坂本諒)

ビジュアル・システムの導入

外来診療室にビジュアル方式による耳鼻科診療ユニットを設備し、インフォームドコンセントに役立てています。

これは、診療用ヘッドライト・耳診察用の顕微鏡にCCDカメラを取り付け、モニター画面に病態の映像を映し出すもので、患者さんに患部をお見せしながら病態や治療方針を説明しています。

このシステムは、1989年に父の神尾友和がこの地に神尾記念病院を移転した時に設置したもので、今でも十分に機能して稼働しています。

当時はまだ患者サービスと言う言葉はあまり馴染みがありませんでした。どちらかと言えば、患者は医者に治療を任せておけば良いというような風潮でした。

しかし父は、患者さんへの説明サービス、今で言えばインフォームドコンセントの必要性を感じていたのだと思います。それがビジュアルシステムで本人映像を使っての説明であれば一目瞭然です。それが患者さんのより一層の安心につながります。

今では当たり前ですが、当時としては非常に先進的だったと思います。「見れるんですか!」と今でも驚かれる患者さんがいます。当時これを設置した父の先見の明には感嘆させられます。

鼻領域に関しても副鼻腔炎の手術に内視鏡手術を先駆的に取り入れ、ナビゲーションシステムも10年前から導入しています。

ナビゲーションシステムの導入も当時耳鼻咽喉科では珍しいことでしたが、目や脳とも近く安全面でも不安を感じる患者さんが多いなか、そういった不安を少しでも和らげることも重要な使命であると考えたからです。

安全性を高める手術室内の指示モニター

手術の模様は、リアルタイムで院長室、医局、手術室内、手術室のスタッフルームなどに設置されたモニターに映し出せるようになっており、ライトペン、マイクによって院長や他の医師と検討や相談が随時できるようになっています。

それゆえに、執刀医だけではなく、多くのスタッフの監視下で行われることになり、手術の安全性を高めることに貢献しています。

時には担当のドクターに対して、私がサポートに入る事やアドバイスを行ったりもしています。

また、このシステムは研修医や当院職員に対して手術の供覧や教育にも役立てています。手術の詳細は、一部の手術(内視鏡を使用しない鼻の手術、咽喉の手術)を除いてビデオテープに収録・保存され、医師の学会活動などにも活用されています。

神尾友信

有床の単科専門病院を維持してゆくこと

今後の医療承継を考えるときに、今の医療経営の大変さを考えると次の代に継承させることに多少の迷いも出てきます。

お陰さまで、患者数も確実に増えており、地域の再開発で今後も患者数の増加が確実に見込めていますが、3年間の医療経営に携わって感じることは、これからの医療経営はますます厳しくなっていくであろうということです。

更には、この規模の単科専門病院で入院用の病床を持って経営を維持してゆく事は大変な苦労を要します。

何故、耳鼻咽喉科に入院施設が必要なのかというと、今でこそ日帰り手術なども普及していますが、中には鼓膜の手術とか症状が落ち着くまでは安静に様子を診なくてはならない患者さんもいます。

昔は耳の手術は2週間位入院していました。いまは短くなって、それでも1週間くらいの入院は必要です。耳鼻科領域の特徴としては手術でも出血することが多い。

また、患者さんは耳鼻科領域での出血に非常に敏感です。頭や顔に近いと言う事もあり、耳や鼻から血が出ると動揺してしまう患者さんが多いのです。

ですから、出血がある間はすぐに退院させる事も難しい。耳や鼻からの出血で慌てて駆け込んでくる患者さんもいますが、殆どはそれほどに重篤ではない事も多いのです。

また、遠方からの患者さんもいますから、患者さんの安心のためにどうしても必要な入院もあります。しかし、病床を維持する事の運営コストや人件費を考えるとロスが大きいために、病床をなくして診療のみの耳鼻咽喉科専門医療機関も多くなっており、先に述べたように、入院が出来る耳鼻咽喉科専門病院は関東では当病院だけとなりました。

大学病院を見ても、耳鼻科が少なくなってきており、研修医も限られた大学病院だけで、他には殆ど入ってこない。必然的に医療レベルは落ちているのが現状です。

しかも、いろいろなところで診て貰っても治らない患者さんも含めて耳鼻咽喉領域の病気で困っている患者さんが多くいて、受け入れ先が少ないという現実があります。

創業の理念を更に突き進めて耳鼻咽喉領域の病気で苦しんでいる人々を一人でも多く治してゆく事が、神尾記念病院の院長としての私の使命と感じています。

人工内耳手術への取り組み

新たな今後の取り組みとして、人工内耳に取り組んで生きたいと思っています。

人工内耳の手術を日本で初めて行ったのは先代の神尾友和でした。内耳領域の手術と言うのはその当時はありませんでした。それにより治療に限界のある内耳領域に新たな可能性を生み出しました。

今では人工内耳の手術は多くの医療機関でも行われていますが、重要なのは術後のリハビリなのです。そこまでやらないと手術をしても意味がありません。

しかしリハビリに熱心に取り組んでいる医療機関は少ないのです。父の後継者として、当病院で人工内耳の手術と、術後のリハビリに取り組んでいきたいと思っています。

絶対的な差別化とは自分にしか出来ない事

最後に、開業医にとって一番大切なものは何かと聞かれれば、それは「何かを持っている」ということだと思います。「何か1つ秀でているものがあること」が強みとなり、自己のアドバンテージになると思っています。

「優しい」とか「親切」とか「丁寧」も大切ですが、それだけでは絶対的な差別化にはなりません。自分にしか出来ない事。これだけは誰にも負けないものを持つこと。たとえ今は無くてもそれを目標にして日々の医療に取り組んでいくことが大切だと思います。

神尾記念病院の歴史

神尾記念病院の歴史

1911年(明治44年) 初代院長・神尾友修が耳鼻咽喉科診療所を開業(現在の外神田4丁目)
1917年(大正7年) 規模を拡大し移転、耳鼻咽喉科専門の個人病院「神尾病院」へ改称
1923年(大正12年) 関東大震災で病院全焼
1926年(大正15年) 被災した病院の仮建築を経て本建築完了
1945年(昭和20年) 東京大空襲により病院全焼
1945年(昭和20年) 長男 友彦が2代院長へ就任。東京都から戦後第1号の病院開設許可を得る
1946年(昭和21年) 新病院竣工
1951年(昭和26年) 個人病院から医療法人財団へ改組(理事長:神尾友彦)
1959年(昭和34年) 初代院長 神尾友修死去
1983年(昭和58年) 2代院長 神尾友彦死去、長男の神尾友和が神尾病院理事長に就任、院長代行兼務
1985年(昭和60年) 神尾友和が3代院長に就任
1989年(平成元年) 現在地へ移転、名称を「神尾記念病院」へ変更
2009年(平成21年) 3代院長 神尾友和死去 長男 神尾友信が院長を代行
2010年(平成22年) 神尾友信が4代院長に就任
2011年(平成23年) 創業100周年を迎え現在に至る

神尾記念病院の基本情報

この記事の著者/編集者

神尾友信 医療法人財団 神尾記念病院 理事長 院長 

1993年 帝京大学医学部卒業、1993年 日本医科大学付属病院耳鼻咽喉科、1995年 山形県北村山公立病院耳鼻咽喉科、1996年 日本医科大学付属病院耳鼻咽喉科、1999年 日本医科大学付属千葉北総病院耳鼻咽喉科、2001年 神尾記念病院入職、2010年 神尾記念病院 4代院長就任
専門領域:鼻副鼻腔手術、耳鼻咽喉科一般
専門医・認定医・学位:日本耳鼻咽喉科学会認定専門医、日本耳鼻咽喉科学会認定補聴器相談医
所属学会:日本耳鼻咽喉科学会、日本聴覚医学会、日本鼻科学会、日本耳科学会、日本めまい平衡医学会

最新記事・ニュース

more

遺伝子専門医でもある熊川先生は、難聴のリスク遺伝子を特定する研究にも携わられてきました。信州大学との共同研究を経て、現在では高い精度で予後を推定できるようになっています。 将来を見据えたライフスタイルの設計のために。本連載最終記事となる今回は熊川先生の経緯や過去の症例を伺いながら、難聴の遺伝子検査について取り上げます。