#02 認知症に関わってゆくことの大切さ

座談会出席者: 木之下徹氏(医療法人社団こだま会こだまクリニック院長) 本多智子氏(医療法人社団こだま会こだまクリニック看護師) 勝又浜子氏(厚生労働省老健局高齢者支援課認知症・虐待防止対策推進室長) 加畑裕美子氏(「レビ-小体型認知症介護家族おしゃべり会」代表) 中野あゆみ氏(有限会社DOOD LIFE(高齢者住宅・訪問介護)代表 社会福祉士)  ファシリテーター:元永拓郎氏(帝京大学大学院文学研究科臨床心理学専攻・准教授) 司会:絹川康夫(一般社団法人全国医業経営支援協会代表理事) ※平成24年7月31日に開催。 出席者の所属、役職は当時のものです。 (『ドクタージャーナル Vol.5』より 取材・構成:絹川康夫、写真:安田知樹、デザイン:坂本諒)

「認知症の人を、人として見る」という視点

元永: 「本人の尊厳を大事にする」という言葉は、もはや言い古されています。にもかかわらず、特に認知症医療の現場では、そうではない状況があるのですね。

だからこそ、パーソンセンタードケアの考え方が出てきた訳ですが、この状況をどのように理解すれば良いのでしょうか?

木之下: 立場が違うと見方が異なることと、立場が違っても見方は変らないということがあります。

将来の当事者になりうる自分たちと、認知症の人の家族として悔しい思いをすることの根っこは同じで、このことにおいては立場が違っても見方は変わらない部分であろうと思うのです。

それが自分であったり、家族であったり、ケアする側であったりしても、「認知症の人を、人として見たらどうなのか」という視点が欠け落ちるところに、違和感や衝突が生じるのではないでしょうか。

まさにそれは、認知症の人の生きる表現を「症状」としてしか見ていない、ということなのかもしれません。

家族であれ、自分自身であれ、認知症になったことで様々な嫌な目に合う。人として見られない。当然有するはずの平等な価値を毀損されている気持ちを感じる。このような現実は、今までも山ほどあったし、今もまだあるでしょう。

多分それは医師だけでなく誰もが同じで、気づいていないからやっているのだろうと。私自身も、そうかもしれません。しかし、気づけば誰もそんなことをやらないでしょう。今回の厚生労働省の発表は、気づきを得る大きなきっかけとなると感じています。

その中でも特に、従来のクリニカルパスに対して、ケアパスの導入がうたわれています。クリニカルパスは入院を基本軸とする概念です。

一方ケアパスは、ケアを軸にした考え方であろうと思います。認知症の人には生活のしづらさがある。それと付き合い、暮らしをつくっていくためには、チームやそれにふさわしい文化や思想が必要です。

出来る限り住み慣れた地域で、自宅で暮らし続けることをアウトカムにしてゆくというコンセプトは、認知症の人を、人として当たり前に大切にするというパーソンセンタードケアの視点と歩みが同じ気がします。

「パーソンセンタードケア(Person Centered Care)」とは、イギリスの臨床心理士、トム・キットウッド氏(1937-1998)が1980年代末の英国で提唱した認知症ケアの考え方。

従来の医学モデルで行われてきた介護施設や介護者中心の一方的な介護を再検討し、認知症患者の個性や人生、尊厳などとしっかり向き合うことで、「その人を中心とした最善のケア」を目指す。

イギリスでは高齢者サービスを行う際の国家基準に取り入れられていて、日本の介護現場でも導入されつつある。

木之下徹
木之下徹氏(医療法人社団こだま会こだまクリニック院長) 

これからの認知症の医療モデルを考える

勝又: 認知症医療にとって重要なことは、「ずっと関わってゆくこと」だと思います。

私は昭和60年代に滋賀県で認知症に携わりました。その時に早期発見を最重要課題として取り組んでいましたが、その60年代に受けた現場での衝撃は非常に大きかったことを覚えています。

その後、厚生労働省では認知症事業から離れておりましたが、今回また携わることとなりました。その間の認知症の施策は随分変わってきました。

しかし、今一番実感していることは、認知症医療は現場で接していなければ分からないということです。

現在150万人いる看護職員の中で、継続的に認知症に関わっている人はそれほど多くなく、意識して認知症に関わっている医師もそれほどいないと思われます。

関わっていなければ、認知症の人のことを知らないし、理解もできない。当然パーソンセンタードケアの言葉も意味も分からないと思います。

急性期の病院などでは、たまたま認知症の人が骨折などで入院してくることがあった場合、あまり良くない医療や対応を受けた揚句に、元居た施設に戻されてしまうことがあると聞きました。

それは、病院の医師やスタッフが、認知症医療とはご本人の生活のしづらさに注目することから始まる、ということを知らないから起きるのではないでしょうか。だから、認知症医療とは継続的に関わっていないと分からないのだと思うのです。

これからますます増えてくる認知症の人たちの医療を、今後、継続的にどうしていかなければならないかということが重要なテーマだと考えます。

勝又浜子
勝又浜子氏(厚生労働省老健局高齢者支援課認知症・虐待防止対策推進室長)

元永: 勝又室長が指摘された、「関わる」ということは重要なキーワードと思われます。

また、関わると言っても、単に病気として関わっているのでは、いつまでたっても認知症の表面的な理解に終わってしまう。

そこに関わり方の質が伴っていないと、医療が認知症の問題行動を抑えるとか、BPSDを押さえ込むという方向にいってしまう。しかも、それらの行為は、医師やスタッフの善意に基づいて行われているということを指摘する人もいます。

しかしそれは関わっている様に見えて、関わっていることにはなっていない。パーソンセンタードケアとはそのことに気づきなさい、ということでもあるかと思います。

木之下: 今回の厚生労働省の発表の前夜において、何事もそうなのですが、あるべき姿としてのこれからの認知症ケアとはどうあるべきなのか、というコンセンサスメイキングがなされたはずです。それが、報告書の「認知症になっても本人の意思が尊重され」にあらわれている。

それに対して現場で認知症医療に取り組んでいる私たちが、そのビジョンに呼応して、たとえば認知症の人の生きる姿を症状として捉えるのではなく、コミュニケーションとして捉える、などといった具体を考え、行動することが大切であろうと思うのです。

つまりこれはコンセンサスメイキングの作業です。施策と現場での出来事が乖離しないように、双方向の風通しを善くする、そしてともに力を尽くす。

その点、細部には不足もあると思いますが、今回の厚生労働省の提示した理念には大いに共感できるものであると、個人的には感じています。

今の医療モデルでよく見られる保守的なパターンとして、「成長させなければならない」、「治さなければならない」、「予防しなければならない」というGrowth Mythに基づく医学モデルがあります。

それに対して、どれほど医療が進化しても、例えば老化は誰も止めようがない。今はそれを認めざるを得ない。

従って、それでも希望を持って生きてゆける状況に変えていく必要が生まれています。このことは認知症についても当てはまることではないでしょうか。

認知症は治せない。予防できない。少し進行を遅らせることができるようになっただけです。

だから、「認知症になっても人として生きてゆく希望は失われない」という状況に変えるための背景づくりのひとつとして、これからの認知症の医療モデルを考えるしかない。

この新たなモデルは魅力的です。なぜなら、他の病気にも、更には病気だけではなく生きづらさを感じる様々な局面において、同じことが言えることに気づけるからです。

ちなみに、認知症が新しい時代を切り拓く上で重要な素材になると考える理由はここにあります。

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遺伝子専門医でもある熊川先生は、難聴のリスク遺伝子を特定する研究にも携わられてきました。信州大学との共同研究を経て、現在では高い精度で予後を推定できるようになっています。 将来を見据えたライフスタイルの設計のために。本連載最終記事となる今回は熊川先生の経緯や過去の症例を伺いながら、難聴の遺伝子検査について取り上げます。