#03 主治医であれば患者さんの全てに寄り添える。それが開業した理由です。

「医療法人一歩会 緩和ケア診療所・いっぽ」の理事長 小笠原一夫氏は、在宅ホスピスの草分け的存在で、群馬県のホスピス運動の先駆者でもある。 勤務医時代に、患者の権利が無視された医療による数多くの悲劇に接してきて、患者の権利を基本にした医療を立ち上げたいと、在宅ホスピスケアのクリニックを開設した。 終末期がん患者の在宅ホスピスケアや、電話相談「がん110番」、がん患者・家族会の設立など、地域包括ケアを見据えた医療・介護・福祉ネットワークづくりなどの社会貢献活動が評価され、同氏には平成29年度第69回保健文化賞が授与された。 (『ドクタージャーナル Vol.24』より 取材・構成:絹川康夫、写真:安田知樹、デザイン:坂本諒)

麻酔科医は疼痛緩和以外では立ち入れない

病院で、他科の医師から依頼されるのは、麻酔科医として患者さんの痛みだけを取って欲しいということで、それ以外のことは拒絶されました。患者さんには手も口も出さない。ということです。

しかし、薬だけで治せる身体的な痛みとは実は少ないのです。心の問題が大きいのです。医師が患者さんの心の問題にも関わっていかないと、患者さんは痛みにも立ち向かえないのです。

当時一番大きな問題が、がんの告知をタブーとされていたことでした。悔しいことに麻酔医は、苦しんでいる末期のがん患者さんや家族を見ていても、疼痛緩和以外では立ち入れないのです。

夫が末期がんの奥さんを襲った後悔と悲劇

ある時、入院している患者さんの妻が、私のところに泣きながら飛び込んできました。彼女の夫は末期の肝臓がんで、私が痛みの治療で関わっていた患者さんでした。

その夫が大分弱ってきた中で、奥さんに手紙をくれたそうです。そこには最期を悟って奥さんへの今までの感謝の言葉がつづられていたそうです。しかし奥さんは、その手紙を読むなり「バカなことを言わないで!」と、くしゃくしゃにしてごみ箱に捨てたそうです。

それ以来、夫は心を完全に閉ざしてしまい、医師にも看護師にも、彼女にも一言も口を利かないで、暗い表情でそのまま10日余りで亡くなってしまったのです。

何故そんなことをしたのかと聞くと、担当医から、本人にがんだと気づかせるようなことは絶対に言ってはならないと繰り返し口止めされていたからと、私の前で号泣するのです。

「私こそありがとう。長いことお疲れさまでした。」と、ひとこと言ってあげられていれば、どれほど良かったでしょうか。

奥さんは大きな後悔を残して、精神的に立ち直れない状況でした。そんな悲劇が起きてしまったのです。

小笠原一夫

主治医として患者さんに関わりたい

そんな経験をして、苦しんでいる患者さんの、ただ痛みだけをとる技術者ではなく、主治医として患者さんに関わりたいと強く思いました。開業すれば自分が主治医として、患者さんの全てに寄り添えます。それが開業した理由です。

まだ勤務医だった1988年に、県民に広くホスピスを知ってもらおうということで、群馬ホスピスケア研究会を立ち上げました。最初は、ある会合で出会った看護師と二人からのスタートでしたが、その後、予想以上の人が集まって、現在でも続いています。

1991年に在宅医療と痛みの緩和のための「ペインクリニック小笠原医院」を群馬県高崎市で開業し、ホスピスケアを標榜しました。その後の2008年に「緩和ケア診療所・いっぽ」と名称変更し、地域緩和ケアの専門診療所として現在に至っています。

この記事の著者/編集者

小笠原一夫 緩和ケア診療所・いっぽ 理事長 

医師:麻酔科医
専門:ペインクリニック、緩和ケア、在宅医療
群馬県在宅療養支援診療所連絡会会長、群馬大学医学部臨床教授、高崎地域緩和ケアネットワーク会長。1976年群馬大学医学部卒業。1987年群馬県ホスピスケア研究会の立ち上げ初代代表。1991年「ペインクリニック小笠原医院」を開設し在宅ホスピスケアに本格的に取り組み始める。2008年「緩和ケア診療所・いっぽ」と名称変更。地域緩和ケアの専門診療所として開院する。2017年 第69回保健文化賞受賞(主催:第一生命保険株式会社 後援:厚生労働省、他)

この連載について

ホスピスケアをムーブメントと捉え、 患者の権利が基本の在宅ホスピスケアに取り組む

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遺伝子専門医でもある熊川先生は、難聴のリスク遺伝子を特定する研究にも携わられてきました。信州大学との共同研究を経て、現在では高い精度で予後を推定できるようになっています。 将来を見据えたライフスタイルの設計のために。本連載最終記事となる今回は熊川先生の経緯や過去の症例を伺いながら、難聴の遺伝子検査について取り上げます。