#01 鈴木央氏:1977年から緩和ケアに取り組み、在宅ターミナルケアの先駆的な存在といわれる。

「鈴木内科医院」は、地域の診療所として50年以上の歴史を持つ。 在宅療養支援診療所として地域の高齢者や認知症患者の医療を担う一方、日本でいち早く緩和ケアに組んだクリニックとして在宅緩和ケアを得意とし、地域のかかりつけ医として患者とその家族を支えている。 初代院長でもある父の鈴木荘一医師は、わが国における緩和ケアの草分けで、在宅ターミナルケアの先駆的な存在としても有名だ。 鈴木央院長は、内科医として外来診療を行いながら、在宅医療では、がんの疼痛管理を始め、経験豊かな知識に基づいた高度な緩和ケアを提供している。 鈴木央院長は、在宅医療は医療の頂点であり、ここには医療の原点があるように思うと語る。 (『ドクタージャーナル Vol.21』より 取材・構成:絹川康夫, 写真:安田知樹, デザイン:坂本諒)
鈴木央
鈴木 央 鈴木内科医院 院長
医師:内科、消化器内科、老年内科。専門:プライマリ・ケア、がん緩和ケア、在宅医療。一般社団法人 全国在宅療養支援診療所連絡会 副会長。大田区在宅医療連携推進協議会会長。日本在宅医学会理事。日本プライマリ・ケア連合学会理事。1987年昭和大学医学部卒業。1995年~99年都南総合病院内科部長。1999年~鈴木内科医院副院長。2015年鈴木内科医院 院長。 主な著書:『がんの痛みをとる5つの選択肢』、『医療用麻薬』、『命をあずける医者えらび-医療はことばに始まり、ことばで終わる-』他多数

― 1961年に鈴木内科医院を開設されたお父上の鈴木荘一先生は、1977年から緩和ケアをスタートされ、我が国の緩和ケアの草分け、在宅ターミナルケアの先駆的な存在といわれています。その当時では大変だったと思われますが。鈴木荘一先生はどんな思いで在宅医療や、在宅ターミナルケアに取り組まれたのでしょうか。最初にお父上の鈴木荘一先生についてお聞かせください。―

もっと終末期患者の苦痛に目を向けるべき

父は、1昨年の12月に逝去しましたが、最後を私が看取ることができてほっとしています。

父が在宅ターミナルケアに取り組みだした当時は、世の中や医師会の中でもなかなか理解されなくて大変だったようで、いろいろ苦労したようです。

そもそも緩和ケアに取り組むきっかけとなったのは、1970年に義弟が末期の肺がんで36歳の若さで亡くなったことでした。

当時、末期の患者への処置は強心剤を投与するくらいでしたので、義弟は最後まで苦しみました。

その経験から、それまでの終末期における消極的な治療姿勢に疑問を持つようになって、医療はもっと終末期の患者の苦痛に目を向けるべきなのではないかと強く思うようになったそうです。

そんな時に、イギリスにはターミナルケアを行う聖クリストファー・ホスピスがあることを知り、1977年にイギリスに渡りました。

そこで、聖クリストファー・ホスピスの創立者で、近代ホスピスの祖とされるシシリー・ソンダース医師に出会い、その当時はまだ日本にはなかった在宅型ターミナルケアのノウハウを学んできました。帰国後に早速、そこで学んだ終末期患者への疼痛緩和を当院に取り入れました。

シシリー・ソンダース(1918年~2005年)

医師・看護師、(英国)
近代ホスピス運動の創始者。近代ホスピスの母。
セント・クリストファー・ホスピスの創立者(1967年に創立した世界最初の現代ホスピス)
ホスピス運動の誕生に当たって重要な役割を果たし、また近代医学における緩和医療の重要性を強く強調したことでも知られる。
1950年代までの医療は、モルヒネなどの鎮痛剤を、中毒になりやすく危険であることを理由に、末期患者(特にガンの末期患者)に対して使うことを控える傾向にあったが、サンダーズはそのようなやり方を改め、患者の肉体的な苦痛を改め、精神的・心理的な苦痛を緩和し、安らかに余生を送ってもらえるような緩和ケア(palliative care)を実践した。
このような医療は「ホリスティック医学;全人的医療(holistic medicine)」と呼ばれることもある。

シシリー・ソンダースが唱えたホスピスの5原則

  • 患者を一人の人格者として扱う。
  • 苦しみを和らげる。
  • 不適切な治療はしない。
  • 家族のケア、死別の悲しみを和らげる。(グリーフケア)
  • チームワーク

その頃の日本は病院医療にシフトされつつあり、1977年は在宅死と入院死の比率がちょうど50%でクロスした年で、それ以降は病院死がずっと比率を上げていき、近年では病院死が80%を超えました。

終末期の医療はなかなか理解されなかった

当時の病院死が増えていく中で、在宅ターミナルケアや在宅死を推進することは、世間の医療の流れとは全く逆方向となります。

その上まだ在宅医療も十分に認知されていない時代に、さらに在宅ターミナルケアまで行うことは大変なことだったようです。

当時、終末期の医療については一部の先進的な医師たちからは理解され評価もしてもらえていたようですが、一般の世間や地域のかかりつけ医の中ではなかなか評価してもらえず、随分辛い思いや苦労もしたという話を聞きました。

それでも息子の私の目から見ていて、思い込んだら一途に何が何でもやり抜くという性格でしたから、そういったことができたのだと思います。医者になりたくないと言っていた私を無理矢理医者にしてしまうような父親でした(笑)。しかし今では、医者の仕事が一番自分に向いていたと父に感謝しています。

私は、1999年から鈴木内科医院の副院長として父と一緒に診療に携わるようになりました。その頃から鈴木内科医院の診療の大部分は私が行うようになりました。当時父は週2回ぐらいの外来診療と、限られた人数の古くから懇意の自分の患者さんを訪問診療していました。

現在当院では、外来診療と併せて在宅療養支援診療所として365日24時間対応で在宅患者さんのケアに当たっています。

毎日の訪問診療は13時から15時の2時間で平均5、6件です。在宅診療には自転車で行っていますので、医院の半径2km、自転車で15分程度の範囲を診療エリアとしています。エリア外からの訪問診療の依頼もあるのですが、現在はその余裕がなく、大変心苦しいのですがお断りさせて頂いているような状況です。

在宅診療で診ている患者さんは40名くらいおられますが、9割位の方が寝たきりの高齢者の方や認知症の方々です。

その中で、在宅緩和ケアを行っている患者さんは4、5名です。その方々の多くは終末期のためのケアとなります。

外来で緩和ケアを受けている患者さんも、ほぼ同数おられます。

鈴木 荘一氏 (1930年~2014年)

1954年東京医科歯科大学医学部卒業。1955年東京厚生年金病院内科勤務。
1961年に現在地(大田区山王)に鈴木内科医院を開設する。
1977年4月に英国・聖クリストファー・ホスピスを日本人医師として初めて見学訪問し、わが国にホスピスを紹介する。
1978年「日本プライマリ・ケア学会」創設に参画し、初代学会誌編集長、その後は常務理事を務める。
1981年「実地匡家のための会」世話人代表。
1983年日本医師会「プライマリ・ケア委員会」委員。同年厚生省「対癌戦略10ヵ年計画・終末期ケア研究会」委員を務める。
【著書】
「ひとはなぜ、人の死を看とるのか」人間と歴史社 (2011/10)「人間らしく死にたい! 在宅死を見つめて20年」 主婦と生活社 (1998/02)

この記事の著者/編集者

鈴木央 鈴木内科医院 院長 

医師:内科、消化器内科、老年内科。専門:プライマリ・ケア、がん緩和ケア、在宅医療。一般社団法人 全国在宅療養支援診療所連絡会 副会長。大田区在宅医療連携推進協議会会長。日本在宅医学会理事。日本プライマリ・ケア連合学会理事。1987年昭和大学医学部卒業。1995年~99年都南総合病院内科部長。1999年~鈴木内科医院副院長。2015年鈴木内科医院 院長。
主な著書:『がんの痛みをとる5つの選択肢』、『医療用麻薬』、『命をあずける医者えらび-医療はことばに始まり、ことばで終わる-』他多数

この連載について

緩和ケアや在宅医療の目標とは、QOLを高め、生活を支えること

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遺伝子専門医でもある熊川先生は、難聴のリスク遺伝子を特定する研究にも携わられてきました。信州大学との共同研究を経て、現在では高い精度で予後を推定できるようになっています。 将来を見据えたライフスタイルの設計のために。本連載最終記事となる今回は熊川先生の経緯や過去の症例を伺いながら、難聴の遺伝子検査について取り上げます。